東海道絵図(新居宿)

新居宿(あらいしゅく)は、東海道五十三次江戸・日本橋から数えて31番目の宿場。旧国名は遠江国、現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。
新居宿は、東海道舞坂宿白須賀宿の間に設置された宿場町で、江戸・日本橋から数えて31番目の宿場町である。浜名湖西岸の今切口に面した標高約3-5m程の低地に立地し、隣接する新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は遠州灘(太平洋)に面していた。
平安から中世までは、浜名川沿いの浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していたが、明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転した。江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていた。
現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化している。新居関所は、「新居関跡(あらいのせきあと)」として、国の特別史跡に指定された。隣接地に新居関所史料館がある。
宝永地震・津波の被害と影響
元禄12年(1699年)には高潮被害により関所が大破し、新居宿では約120軒が流出した。元禄14年(1701年)に津波のため関所を移転した。その後、宝永4年(1707年)に宝永地震が起こり、地震と津波のため家屋855軒が倒壊または浸水した。新居宿や渡船は大きな被害を受けた。新居の宝永地震の被害は戸数665軒中120軒が流失、1丈程(3m)の津波が3回あり、「関所跡かたなし」との記録が残っている。翌宝永5年(1708年)に関所は現在地に移転した。
今切口の復興と今切関所の流出・移転によって、今切の渡しが27丁(2.9㎞)から1里(約4km)に延長して渡航が不便になったため、旅人は東海道の利用を回避して本坂通を通行するようになった。
翌宝永5年4月に今切口の修復と新居宿の移転は一応の完了をみたが、宝永地震から1年以上経過した後も、東海道に利用者はもどらず復興もままならないことから、宝永6年3月(1709年)に新居宿を始め、浜松・舞阪・白須賀・二川吉田の6宿は、公的旅行では東海道を利用するよう嘆願書を出した。10年後の享保2年(1717年)11月になり、本坂道の通行差留となった。しかし、幕府道中奉行の指令にもかかわらず旅人がなかなか東海道筋に戻らなかったという。  (wikipedia・新居宿より)]

明応地震により消滅した浜名湖の陸地

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第七 浜松ヨリ赤坂マデ」よりダウンロードして利用しています。
東海道絵図は天和初年(一六八一) 頃作成の絵図で、正確な東海道絵図では現存、最古のものである。 (1−東海道絵図集成H− 全二巻)より
その為、宝永4年(1707年)の宝永地震の津波被害により今切口の復興と対岸の新居にあった今切関所が西へ移転される前の絵図面になります。

元図「コマ番号 7/9」リンク

絵地図初期設定画面右上に「荒井 番所」、「札辻」、「道から舞阪舟渡し」と記述され、絵地図を右スクロールすると右下に「是から荒井舟渡し」、「舞坂 札辻」と記述されています。(※元新居の絵地図で、新居番所及び新居宿の部分は宝永地震の津波被害による移転前の絵図になります。)

元図「コマ番号 7/10」リンク

絵地図初期設定画面に「内海」が描かれ、絵地図を右スクロールすると、新居宿が描かれ、「けうをう寺」、「ぢぞう」、「禅宗 とうふく寺 薬師」、「はまなのはし(浜名橋)」、「橋本」、「一里塚 江戸から六十四里 京から五十六里」と舞坂一里塚が表示されています。(※元新居の絵地図で、新居番所及び新居宿の部分は宝永地震の津波被害による移転前の絵図になります。)


1回目の所替え前、当初の新居宿(現在の静岡県湖西市)は図に示す通り、突き出た半島に位置する直線状の宿場であった。東端に関所があり城町・中町・西町の3町で構成されていた。城町には本陣・脇本陣、旅籠が軒を連ね、西町の北裏に寺院・神社が配置されていた。  (「江戸時代の被災地復興計画」より)]
  
以降は五海道其外分間絵図並見取絵図(東海道分間延絵図_13巻之内6・文化3年(1806)完成)で、元禄14年(1701年)に津波で新居宿の移転後の図になります。
元図「東海道分間延絵図_13巻之内6-16」リンク

元図「東海道分間延絵図_13巻之内6-17」リンク  

 

 
2回目の所替えによる宿場の計画は、当初の宿場の形態が継承されているといえる。関所と城町(泉町に改称)が東西方向に配置され、そこから南に折れて南北方向に中町・西町が配置された。西側の山地を利用し、寺院8・神社5、合計13寺社を配置している。このような宿場の構成は、当初の新居宿の形態を継承したものである。一直線状の旧新居宿がL字型に街道の道筋を変えただけであり、基本的にはリニアな宿場町の形態なのである。町の単位、位置関係、配置構成の考え方がそのまま引き継がれている。  (「江戸時代の被災地復興計画」より)]
    
    東海道絵図(舞阪宿)    東海道絵図(白須賀宿)