東海道絵図(桑名宿)

桑名宿(くわなしゅく、くわなじゅく)は、東海道五十三次の42番目の宿場である。現在は三重県桑名市
脇往還佐屋街道もここから分岐していた。徳川四天王本多家のほか、各松平家大名が藩主を務めた桑名藩城下町でもある。
江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。
宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国、および、伊勢参りの玄関口となっていた。
七里の渡しの航路図

江戸時代後期に幕府道中奉行所が五街道の全宿駅を調査、記録した『宿村大概帳』によれば、「桑名宿雑之部」に「一、此宿蛤・時雨蛤・白魚・干白魚名物なり、」との記載があり、桑名宿の主な名物として蛤(はまぐり)、白魚(しらうお)を挙げることができる。
江戸時代、桑名宿から富田の立場にかけての東海道沿いでは、焼き蛤を食べさせる店が多数軒を連ねて繁盛していた。
江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにあったが、関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられて以降、市街地は西にシフトした。  (wikipedia・桑名宿より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第九 桑名ヨリ土山マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 9/3」リンク

桑名宿家並の絵地図で、「桑名城」と記述され、その前が南大手門橋で、そこの上方向鍵の手に桑名宿京町見附、その左の鍵の手に吉津屋見附が描かれています。絵地図右み「此所ヨリ宮へ舟にて七里」と七里の渡し場が描かれ、その上に「番所」と記述されています。

元図「コマ番号 9/4」リンク

絵地図初期設定画面左端に「一向宗 志こう寺(真光寺)」、中央左に「まちや川(員弁川)」と記述され板橋(町屋橋)が描かれ、右に「やすなが(桑名市安永)」、「一向宗 せいうん寺(晴雲寺)」、「八幡」と記述されています。絵地図を右スクロールすると「大門(桑名市大福)」、そこの右方向、鍵の手を曲がると現在の桑名市西矢田町になり矢田立場がありました。その下に「八まん」、「浄土宗 本がん寺(廃寺・本願寺)」、「天武天皇社」、その先の鍵の手の右に番所(七曲見附)、番所の右に「一向宗長えん寺(長圓寺)」、「一向宗 くわんせう寺」、「日蓮宗 じうりょう寺(壽量寺)」、「浄土宗 汁ねん寺(十念寺)」、「一向宗 かうとく寺(光徳寺)」、「浄土宗 光明寺」が記述されています。 光徳寺前には泡洲崎八幡社があります。次の鍵の手上に吉津屋見附が描かれています。
[大福村[現在地名]桑名市大福
現桑名市の西南部にあり、上野(うえの)村の東に位置する。村の西部を東海道がほぼ南北に通っている。「桑名志」には「元禄以前迄ハ大門村ト云、大福田寺当村ノ東ニアリ、其大門ノ有シ所故カク云也」とある。大福田(だいふくでん)寺が当村に設置された年代は文亀年間(一五〇一―〇四)頃と推定される(大福田寺所蔵文書)が、寛文二年(一六六二)には東方(ひがしかた)村へ移った。大門(だいもん)村から大福村への改称は確証を欠くが、慶安元年(一六四八)の伊勢国高郷帳には、すでに大福村とある。  (「大福村(だいふくむら)とは? 意味や使い方」より)]

元図「コマ番号 9/5」リンク

絵地図初期設定画面左に朝明川が描かれ、右上に「かき(三重郡朝日町柿)」と記述されています。絵地図を右スクロールすると、「をぶけ(三重郡朝日町小向)」と記述、絵地図右端手前に「一里塚 江戸から九十二里 京から二十八里」と縄生一里塚が表示され、一里塚の右上に「な御(三重郡朝日町縄生(なお))」と記述されています。その右に「一向宗 志こう寺(真光寺)」と記述され、絵地図端に板橋(町屋橋)が描かれています。

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