東海道絵図(石薬師宿)

石薬師宿(いしやくししゅく、いしやくしじゅく)は、東海道五十三次の44番目の宿場である。現在は三重県鈴鹿市
1616年(元和2年)に宿場となった。  (wikipedia・石薬師宿より)

慶長6年(1601)に東海道伝馬制度が設定されたが、四日市から亀山までの21.5kmには宿場がなかった。交通量の増加につれて宿場の必要性が生まれ、元和2年(1616)に付近の人を集めて石薬師宿をつくり、さらに数年遅れて庄野宿が開かれた。
元和2年(1616)の石薬師宿の成立は、この宿の元本陣小沢家に残る延享4年(1747)の宿役軽減嘆願書によると、この地には家数32軒しかなく、隣の上野村との合宿を命じられたが、この村も12軒しかないので、付近より人家を集めて、180軒で宿立てしたとある。
天保9年(1838)の村差出明細帳によると、宿の構成は南北8丁あまり、本陣小沢家・岡田家・蘭田家は西側のほぼ中央に、問屋場はその東側にある。このときの家数193、うち旅籠屋15、人数803。弘化2年(1845)の宿絵図によると家数181のうち旅籠19、茶店と兼業を合わせると32、茶店2で兼業をいれると12、その他の商店7などで、農業133と隣の庄野宿同様農家の割合がおおく70パーセント以上を占めている農村的色彩の濃い宿場であった。
前述の宿役軽減嘆願書には宿困窮の理由として、参宮客は上方は関宿より、関東方面は四日市から伊勢参宮道を行くし、荷物は白子浦・若松浦から亀山のルートを通りこの地を通らないことを揚げている。  (「鈴鹿市石薬師町の町並み」より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第九 桑名ヨリ土山マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 9/13」リンク

絵地図初期設定画面中央下に「うなぎ」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「一里塚 江戸から九十七里 京から二十三里」と石薬師一里塚が表示されています。その右に「うえ野(鈴鹿市上野町)」、その右上に「石薬師寺」、「御茶屋」と記述されている、「御茶屋」は徳川将軍上洛の際の休息地か? そこから右上方向に石薬師宿が描かれ、「石薬師 札辻」と記述されています。

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