金谷宿(かなやしゅく、かなやじゅく) は、東海道五十三次の24番目の宿場である。遠江国最東端の宿場町である。
現在の静岡県島田市金谷。大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような賑わいをみせた。 (wikipedia・金谷宿より)]
東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第五 江尻ヨリ金屋マデ」、「東海道絵図. 巻第六 金屋ヨリ浜松マデ」よりダウンロードして利用しています。
元図「コマ番号 5/20」リンク
絵地図左下に「金屋 札辻」、右スクロールすると「大井川歩渡り」と記述されています。大井川左の筋が八軒屋橋という板橋がかかっていた川筋で、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。
[島田河原町から大井川を渡ると金谷宿の東側の金谷河原町。この金谷宿東側の入り口には、八軒屋橋という板橋がかかっていました。通常宿の入り口に左右一対置かれていた桝形が金谷宿には無く、橋がその役割をしていました。大井川の岸からこの橋までの街道の両側は一町五十間ほど松並木になっていて、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。
河原町から西へ向かって十五軒あたりから先が宿の中心街。本町には三軒の本陣と脇本陣、助郷会所があり、要人の宿泊など町の重要な役割を担っていました。街道の両わきには、これらの施設とともに五十一軒の旅籠が立ち並び、大井川を渡る旅人たちを迎えました。上本町には問屋場や町飛脚があり、人々は農業、旅籠屋、茶店、諸商人などを営んで暮らしていました。
新町に入り長光寺(ちょうこうじ)の門前を抜けると、金谷宿の西の入り口である土橋に出て、その西側には石畳が敷かれた金谷坂がひかえていました。途中右手には庚申堂があり、中腹まで登ると金谷の町が一望でき、さらに登ると富士山が見えます。金谷坂を登りきると左手から菊川の鎌倉街道につながり、右手には諏訪原城の森が広がっていました。 (「お茶街道/金谷宿の歴史」より)]
元図「コマ番号 6/3」リンク
絵地図初期設定画面下中央に「まきのはら(牧之原・島田市金谷坂町)」、右の「こうしん(金谷庚申堂)」は現在も設置されています。絵地図を右スクロールすると「金屋 札辻」、その右に「一里塚 江戸から五十一里 京から六十九里」と金谷一里塚が表示されています。
[東海道制定の頃、ぬかるむ山道に江戸時代幕府は旅人達が歩き易いように敷き石を並べることを命じました。金谷駅裏の金谷坂に残る、うっそうとした杉林のなかに敷かれた石畳の道は、旧東海道の面影を伝える数少ないスポット。僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、旧東海道金谷坂石畳入り口から諏訪原城跡に至る延長430メートルを、約71,000個の山石を使って復元されました。平成13年には「石畳菊坂助郷伝説」と銘打ち峠の西側の菊川坂に町内外の方々の手によって山石が敷かれ、611メートルの石畳が復元されました。 (「旧東海道石畳(金谷坂) – 静岡県観光」より)]