六郷の渡し

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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
川崎宿図(拡大元画像・絵図中央右が、六郷の渡しで「渡船場」と記述されています。)

六郷の渡し
[六郷は東海道多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。六郷大橋は千住大橋両国橋とともに江戸の三大橋とされた。寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。貞享元年の橋は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。  (wikipedia・六郷大橋と六郷の渡し より)]

川崎宿
[東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に設置された。
設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年(寛永9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めた。
そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした。
川崎宿維持の負担に苦しめられたのは宿の住民だけでなく、近隣の農民も助郷として負担を強いられていた。1694年(元禄7年)の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていたが、東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となった結果、1725年(享保10年)には定助郷・大助郷の区分を廃止し、後にはさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられている。助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものであり、またその間は農作業にもかかれず、さらには川崎宿特有の問題として多摩川が川止めになれば何日も拘束されてしまうなど負担は重く、助郷の免除願が出されたり、出勤簿だけ書いて逃走したりと、負担回避のための行動が行われた。延享年間以降には金納する例も現れたが、支払う金銭は高額であり、依然として助郷村は苦しむこととなった。
六郷渡舟

川崎宿(歌川広重東海道五十三次』より)  (wikipedia・川崎宿より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)川崎』 「春霞 ともに立出で めをとばし わたりつるみの 心のとけし 春園静枝」 (Wikimedia Commons)

『東海道五十三次細見圖㑹 道中風俗 川崎」』、「馬士(うまかた)乗人(のりて)を待(まつ)」 (Wikimedia Commons)

葛飾北斎『東海道五十三次』(東海道五十三次-葛飾北斎 画[他]-歴史画報社.pdf) – 川崎

江戸名所図会」 ・六郷渡場

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「六郷渡場」(4-79)、「六郷渡解説・左ページ」(4-78)

明治天皇六郷渡御碑 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が、六郷の渡し碑です。

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