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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
戸塚宿図(拡大元画像・絵図東海道中央右、「字臺宿」上に「本陣」と記述されています。)
戸塚宿
[戸塚宿(とつかしゅく、とつかじゅく)は、東海道五十三次の5番目の宿場である。東海道では相模国最東端の宿場町である。相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、上記の理由から戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町ダイエー前と戸塚町大坂下にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれている。
備考
●戸塚宿にちなむ川柳「佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」:
鉢の木物語のパロディで、「いざ鎌倉」と馳せ参じた老馬が鎌倉目前の戸塚で転んだ、という意味。「戸塚の坂」は戸塚宿の上方寄りにある大坂、あるいは程ヶ谷宿との間にある権太坂や品濃坂(東戸塚駅近く)のことともいう。
●元遊廓の名残として、料亭の「丁字屋」が近年まで営業していた。
戸塚宿(歌川広重『東海道五十三次_(浮世絵)』より)(wikipedia-photo)
(wikipedia・戸塚宿より)]
戸塚宿澤邊本陣跡
[清源院から国道1号へ戻って、清源院入口交差点やバスセンター前交差点を直進していきます。 バスセンターや戸塚郵便局を過ぎていくと、道の脇に蔵がありました。 壁はコンクリート製でしたが礎石は赤レンガで出来ていて、趣きのある佇まいでした。 蔵を過ぎていくと、戸塚消防署の手前に石垣で囲まれた所があります。 ここが澤邊本陣跡になります。 「東海道戸塚宿 澤邊本陣跡」の標柱や解説板が立っていました。 奥には「明治天皇戸塚行在所阯」の石柱もありました。
『本陣跡
戸塚が東海道の宿場になったのは慶長9年(1604)11月のことであった。 澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。 本陣とは公卿、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことを云ふ。 (戸塚観光協会)』
『旧東海道 澤邊本陣跡
澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。 本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。 明治天皇の東下の際には行在所になりました。 敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。 弘治2年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。 (戸塚区役所)』 (「悠歩悠遊 – 戸塚宿」より)]
羽黒神社
[戸塚宿澤邊本陣跡奥に鎮座する羽黒神社は6本の銀杏の木に囲まれた神社であり、八坂神社とともに戸塚宿の鎮守である。澤邊河内守信友が、 弘治2年(1556年)に澤邊家の故郷である出羽国の羽黒大権現を勧請し祀ったのが始まりと伝えられている。その後、澤邊家は戸塚本陣となっている。また、澤邊信友の供養塔が海蔵院に建っている。 (「羽黒神社(戸塚宿)(戸塚・いずみ野・港南台)」より)]
「戸塚宿 澤邊本陣跡 – Google Map 画像リンク」「羽黒神社 – Google Map 画像リンク」
カメラ西北西方向が戸塚宿澤邊本陣跡碑で、その左小路先に羽黒神社があります。