樹源寺

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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
保戸ヶ谷宿図(拡大元画像・絵図東海道左方向、「字樹源寺石橋」と記述され、その上に「樹源寺」と記述されています。)

樹源寺
[樹源寺(じゅげん)の開基は心了院妙秀日正尼、開山は善通院日了上人。鎌倉時代までは、東方山医王寺と称し真言宗の大きな寺でしたが、その後兵火により、薬師堂だけが残る廃寺となりました。寛永年間(1624~44)初期に保土ヶ谷宿本陣・初代苅部清兵衛の母堂が日蓮宗帰依し、薬師堂の脇に庵を建て、日蓮宗身延山久遠寺末寺として創建しました。明治時代の有名な劇作家・詩人で政治家の山崎紫紅の墓があります。寺の名は、境内にあった大ケヤキが源です。樹齢 700 年で横浜市の保護木に指定されましたが、昭和 46 年(1971)に枯れてしまいました。  (「ようこそ 歴史と自然の街 保土ケ谷へ。 – 横浜市」より)]

[当山は鎌倉時代末期まで、東方山医王寺という真言宗の巨刹(おおでら)でしたが、兵火にかかり薬師如来を安置した薬師堂のみを残して一時期廃寺同然となっていました。
 後、寛永年間( 1624-44 )になり、保土ヶ谷宿本陣刈部吉重の室(奥方)が日蓮聖人の御教に深く帰依され妙秀尼(みょうしゅうに)と号し、焼け残った薬師堂の大欅(おおけやき)の傍らに庵を結ばれ、師の善通院日了上人を招いて日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として開山致しました。
 開基妙秀尼は寛永9年(1632)5月22日遷化、開山日了上人は明暦3年(1657)9月27日に御遷化されています。
 医王寺時代のなごりである薬師如来は、人々の病を平癒し苦悩を救う佛様と伝えられ、いつのひにか山門外の小堂に安置されて、お年寄りたちの眼病平癒の祈願を受けておりましたが、現在は、昭和54年日蓮上人第七百遠忌報恩事業の一環として建立された講堂の中に安置され、人々の信仰を集めています。また当山の墓地はJR東海道線を踏み切った小高い丘の南面に広がっておりますが、明治末から大正期にかけて活躍した、劇作家、山崎紫紅(1875~1939)の墓があることで知られています。寺号の由来でもありました樹源寺の大欅は七百有余年の樹齢をほこり、当山の象徴として広く人々に親しまれていましたが、(残念なことにこの欅は排気ガス等による空気汚染のために枯れ、昭和45年に伐採されました。)  (「樹源寺ホームページ – 樹源寺の沿革」より)]

樹源寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が樹源寺山門です。

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