石観音堂

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石観音堂
[江戸時代元禄年間(1688―1704)になると、庶民の間で著名な社寺や名所への参詣が盛んとなり、『江戸名所図会』などの地誌が数多く刊行されるようになりました。江戸名所図会には、川崎大師の賑わいを「詣人絶ゆる事なし、正・五・九月の二十一日、別して三月二十一日は、御影供修行ある故に大いに賑わえり」と記すほか、大師より7丁(約3km)ほどはなれた石観音堂(いしかんのんどう)の賑わいについて「毎月十七日道俗通夜参籠す」と記しています。
 石観音堂は、寛文5年(1665)に明長寺の僧弁融によって開かれた寺で、本尊は石造如意輪観音像です。「潮音殿」と書かれた扁額(へんがく)がかかる山門を入ると、「霊亀石」と呼ばれている手洗石(ちょうずいし)が置かれており、次のような伝説が伝えられています。享保18年(1733)は不漁続きの年でしたが、ある日、地元の漁師が漁を終えて帰ろうとすると、急に船が動かなくなってしまいました。
 船の下をみると大きな石があり、手洗石に手頃な大きさだったので引き上げて石観音に奉納しようとしましたが、なかなか引き上げることができませんでした。その時、2、3匹の亀があらわれ漁師に力をかしてくれたのでやっと石を引き上げ、石観音に奉納したところ豊漁になったということです。
 境内には霊亀石の他、大師河原村に住んでいた俳人花鳥庵梅動が、宝暦8年(1758)に柿本人麻呂像奉納のため矢数独吟(やかずどくぎん)(一定時間内に数多くの句を詠むこと)を行い、卯の上刻(午前5時)から申の下刻(午後5時)の間に1万句の俳諧を詠んだのを記念してつくられた「梅動独吟万句詠草塚」や延享4年(1747)に俳人茗荷坊の門人6名が観音に因んだ句を詠んだのを記念してつくられた「六人ー句碑」などのほか道標力石などの石造物が残されています。  (「川崎市教育委員会:石観音堂」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「石観音堂」(5-11)、「河崎汐濱」(5-10)
石観音堂(拡大図)

河崎汐濱(拡大図)

潮音殿石観音堂 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向が石観音堂山門です。

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