能見堂跡

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能見堂跡
[東海道程ヶ谷宿から鎌倉へ至る金沢道がこの地を通る。仁和年間に画家の巨勢金岡がこの地を訪れた際に、松の根元から写生をしようとすると、あまりに見事な景色と潮の干満による変化にのけ反ったことから「のっけ堂」と呼ばれ、思わず筆を投げ捨てたことから「筆捨て松」と呼ばれるようになった言い伝えが残る。それから70年余りの後、藤原道長が設けた草庵が能見堂となる。寛文年間には、久世広之増上寺からこの地へ地蔵院を移し、これを擲筆山地蔵院と称した。元禄時代には心越禅師が、ここからの風景が瀟湘八景に似ているとして武州能見堂八景の詩を詠み、これが金沢八景の由来となった。  (wikipedia・能見台より)]

[能見堂は、寛文年間(1661~73)に、当時の領主久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)が、芝増上寺の子院を移設し、地蔵菩薩を本尊として再興した擲筆山(てきひつざん)地蔵院のことです。
明からの渡来層、心越禅師(しんえつぜんじ)が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヶ所の勝景を漢詩に詠んだことで、『金沢八景』の場所と名称が定まりました。
歌川(安藤)広重らが、これを題材に浮世絵を描いたことによって、能見堂は広く知られるようになりました。
現在、能見堂跡には享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑が残っています。
これは江戸・保土ヶ谷・金沢・鎌倉・江ノ島の観光ルートの証でしょう。現在では梅の名所のひとつです。  (「能見堂跡 横浜市金沢区 横浜金沢観光協会」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「能見堂 擲筆松」(6-23)、「能見堂解説-1・金澤勝槩(しょうがい)一覧之図」(6-24)、「金澤勝槩(しょうがい)一覧之図其二」(6-25)、「金澤勝槩(しょうがい)一覧之図其三、能見堂解説-2」(6-26)、「能見堂解説-3」(6-27)
能見堂 擲筆松(拡大図)

金澤勝槩(しょうがい)一覧之図(拡大図)

[ 能見堂より平臨(へいりん)する所の図なり]

金澤勝槩(しょうがい)一覧之図其二(拡大図)

金澤勝槩(しょうがい)一覧之図其三(拡大図)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「金澤 能見堂 擲筆松 6巻 51p

能見堂跡 – Google Map 画像リンク

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