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雲松院
[臥龍山雲松院は曹洞宗の寺で、小机城(史跡指定)の城主であった小田原北条家の家老笠原越前守信為が主君北条早雲と亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したものである。寺伝の「雲松院起立記」によると建立の年代は「天文年中」とあるが実際は寺伝より若干古く早雲公七回忌と信隆公の三十回忌に当る大永五年(一五二五)いまから四百五十年前ごろと推定される。
新領主となった笠原氏は、当時の武将の間で深く信仰されていた曹洞宗の熱心な信徒であったので旧領戸倉に近い静岡県榛原郡榛原町の石雲院七哲の一人季雲永岳に頼み、その弟子天叟須孝和尚を招いて雲松院の開山とした。こういう関係で雲松院では季雲永岳和尚を勧請開山として初代とし、開山天叟順季和尚を二代に置いている。
天叟順孝和尚は信為の父信隆の法名「乾徳寺殿雲松道慶庵主」から寺の院号を雲松院とし、寺号を乾徳寺とつけた。また山号は竜の住む池にちなんで臥竜山とした。なお寺号については神大寺という伝えもあり、雲松院ははじめ現在の神奈川区神大寺に建てたがすぐに火災になり、現在地に移したので。もとは神大寺といったともいわれるが定かではない。
本尊は虚空蔵菩薩(座像八寸、木造)で製作年代及び作者は明らかではない。
雲松院創建当初のことが必ずしも詳らかではないのは、延享二年(一七四五)に大火に合い、古記録がほとんど失われてしまったからである。現在の本堂はその後再建されたもの。
なお墓地には笠原氏一門とその家臣門奈氏の五輪塔などがあるが、現在笠原氏とは檀信徒の関係は失われている。 (「雲松院の由縁 – 臥龍山 雲松院」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「小机城址雲松院」(5-46)、「雲松院解説・左ページ」(5-45)、「小机城址解説」(5-47)
小机城址雲松院(拡大図)
カメラ南西方向が雲松院参道です。