マーカーは半田坂(えんま坂)・凧坂の坂下です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央上・「松原」右方向に半田坂(えんま坂)・凧坂の二又道が描かれ、半田坂(えんま坂)・凧坂の間に十王堂が描かれています。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図に半田塚上に凧坂が描かれています。
半田坂(えんま坂)
[坂名 – 半田坂(はんだざか)、別名 – えんま坂(えんまざか)
赤塚通りの“松原六丁目”交差点から北に200m入るとY字型に分かれる2つの坂がある。左は凧坂,右側が半田坂。旧大山道。
かつてこの辺りは半田塚村と呼ばれた。坂名はこれに由来する。(「今昔東京の坂」より) (「profile/半田坂」より)]
[なだらかな起伏のある道を坦々と行くと、松原6‐20の北東角に道標があり、「従是左相州大山道」と刻まれています。
ここから東へ行く道(松原5丁目と6丁目の境界の道)も古道で、徳明地蔵(松原6‐15・Google Maps)、明林地蔵(松原5‐9・Google Maps)を経て井の頭線東松原駅を通り、羽根木、大原を抜けて下北沢方面から来た「鎌倉道」の伝承をもつ古道と合流しています。道標は羽根木方面から来た人に対しての道案内だったのでしょう。
さて、松原大山通りは道標付近から下り坂です。地元で「閻魔坂」と呼ばれる坂道で、坂沿いに閻魔大王など冥界の十王を祀った十王堂(閻魔堂)があったことに由来します。十王堂の隣には十三仏堂もあり、村人によって守られてきましたが、明治7年に閻魔堂が下北沢の森巌寺に移され、当地には何も残っていません。
閻魔坂をさらに下ると、右から「凧坂」と呼ばれる坂道が合流し、その合流点に昭和15年建立の馬頭観音があります。馬頭観音は観音菩薩の変化像のひとつで、普通、頭上に馬の頭を頂いた憤怒の相で表現されます。これは人間の心の中の邪念や弱さを打ち砕き、善い道へと導く存在と考えられますが、馬頭からの連想で、当時の人々にとって大切な存在であった馬の供養のために路傍や死馬の埋葬地などに馬頭観音を建立する風習が生まれ、それは江戸時代から昭和初期まで続きました。ここにあるのは「馬頭観世音」と刻まれた文字碑です。 (「世田谷の古道「松原大山道」 – FC2」より)]
凧坂(たこさか)
[世田谷区松原2丁目と松原6丁目の間を南から北へ上る坂道です。松原2丁目32番と松原6丁目32番の間から、松原2丁目51番と松原6丁目21/20番の間を上ります。
坂下で二股に分かれる道を左に行く道が凧坂で、これを右に行くと半田坂になります。
坂下には、馬頭観世音の石碑があります。
世田谷区教育委員会『世田谷の地名:区域の沿革・地誌・地名の起源(上)』には、次のとおり書かれています。
凧坂=凧坂という坂は、栴檀並の東境の坂を云うのであるが、地名としては坂を登りきったあたりからと場所が少しずれているわけである。なぜ凧坂というのか、調査員の中村昌治氏は「たこう坂」の当て字で、傾斜のやや急な坂の意であるといわれている。
他に類似の地名は見当たらないが、長野県長野市の田子・石川県金沢市の高尾・千葉県香取郡多古町の多古附近の地形図をみると何れも台地乃至は比較的低い山地を含む区域の地名のようである。
松原の凧坂も台地上にあって、この点類似しているわけである。
坂道の標識は設置されていません。 (「凧坂(世田谷区松原」より)]
半田坂(えんま坂)・カメラ南方向が半田坂(えんま坂)です。
凧坂上・カメラ南方向が凧坂です。
半田坂(えんま坂)下、凧坂下・カメラ北北東方向、右の坂が半田坂で、左の坂が凧坂です。交点に馬頭観世音の石碑がありました。
2020年7月画像