[成城三丁目緑地東側を南方向に下る坂です。]
[成城の病院坂は地元では「病院坂」と呼んでいる。 ただし由来を知る人は少ない。 この坂の西側の崖線は江戸時代は幕府の御料地だった。 そのまま明治以降は宮内庁の直轄地で、自然を守るべく林野庁の施設もでき、農水省の土地として近年まで崖線の環境保持を続けてきた。 最近では住民が中心となって手入れをしている。
実はこの林野庁の施設以前に、明治末期から昭和の初期まで、この坂の切通しの上に伝染病の隔離施設があった。 当時は結核などの場合は隔離する対応が多かった。そんな時代背景から病院があることが住民には印象が強かったのだろう。 それがこの坂を病院坂と呼ぶようになった由来である。 (「病院坂(成城): ぼのぼのぶろぐ」より)]
[戦前は、喜多見や緑地のあった地には喜多見御料林が広がっていたが、 1947年に国有財産として払い下げられて林野庁が保有していた。1994年の都市計画によって世田谷区が緑地として整備して、1995年3月と2005年3月に段階経て供用を開始し、2001年までに世田谷区が土地を取得した。国分寺崖線に面していることから湧水が豊富であり、緑地にはセキショウが群生する湧水と関東ローム層の地層が見える湧水地がある。斜面緑地であったことから開発がされなかったので都内では珍しい自然が残されており、クヌギ林・コナラ林を中心にケヤキやサクラなど様々な植物が植栽され、サワガニなども生息する緑地である。散策路・庭園・広場・ベンチなどが整備されており、緑地の管理は小学生や地域住民を中心とした成城三丁目緑地コア会議が行なっている。 (wikipedia・成城三丁目緑地より)]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図の喜多見と野田の間、斜めに描かれる道が病院坂になります。
マーカーは病院坂の坂上です。
病院坂上・カメラ南方向が病院坂です。
病院坂下・カメラ北北西方向が病院坂です。