三崎坂

[【標識の説明】
所在地 台東区谷中
 三崎坂(さんさきざか)
「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。
 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会  (「東京都台東区の歴史 三崎坂」より)] 

谷中三崎町
[三崎(さんさきと読む)の名は、この地が駒込田端谷中の三つの高台に向かい合って立っていることから名付けられたという。町の中央を東西に三崎坂ある。江戸時代は「首振り坂」とも呼ばれていた。明治の落語家、円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台である。この円朝の墓は地図にもある全生庵にある。明治34年創立の谷中小学校がある。
真島町の大きな敷地の横に、「あかぢ坂」という、ちょっと変わった名前の坂がある。漢字だと「明治坂」坂の上に「ヂエモン」の屋敷があった。明治の大財閥、渡辺家の屋敷だ。初代が明石屋治右衛門と言ったので略して「明治(あかぢ)」と言うわけだ。明治の土地長者は岩崎家三井家、峯島家(尾張銀行経営)、阿部家(旧福山藩主)と続くが渡辺家は堂々五番目であの安田財閥安田善次郎より上位である。明治10年、九代目が銀行を設立した。渡辺銀行である。この渡辺銀行が昭和初期の金融恐慌で倒産した。根津千駄木、谷中では損害を被った人が続出した。人は皮肉って「赤字坂」という。 「あかじ坂」の坂下角に、外国人ばかりが宿泊する変わった旅館「澤の屋」がある。 真島稲荷の横の坂は「三浦坂」、美作(みまさか 岡山県)藩主三浦家の下屋敷前の坂であったことから付けられた旧町名を谷中真島町という。真島は三浦氏旧藩名である。
三浦坂を上がった突き当りには、原始時代の貝殻が出てくる領玄寺がある。領玄寺は、藍染川(谷田川)が流れていた通りからは高台に位置するが、原始時代にはこの辺まで海岸線だったと思うと驚きである。
三崎坂下の文京区との区境には藍染川が流れていて、暗渠化した跡はクネクネと曲がった道となった。「へび道」という。  (「谷中三崎町 – DTI」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図」(絵図四つ切右下にダンゴサカ(団子坂)が描かれています。その上方向藍染川から上が三崎坂になります。)

マーカーは三崎坂の坂上です。

三崎坂 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は三崎坂の坂上で、坂左側に標柱があります。

カメラ位置は三崎坂の坂下で、坂右側街路灯に「谷中さんざき坂」と標識版が掲げられています。

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