寛永寺の坂(車坂・屏風坂・信濃坂)

[江戸の坂をまとめて書いているもので、比較的古いものとしては、天和二年(一六八二)に戸田茂睡(とだ もすい・1706年死去)という人の『紫の一本』(むらさきのひともと)という本がある。これには三十一の坂の名が並べてあり、一つ一つに解説が加えられている。
 その坂は次のようなものである。
 すなわち、長坂(永坂のこと)、狸穴の坂聖坂榎坂(増上寺裏門)、榎坂(赤坂溜池)、行人坂(目黒)、女夫坂(四谷伝馬町)、不動坂(目白坂のこと)、金剛寺坂とび坂(本郷、小石川の両方の坂)、菊坂なしの木坂(本郷)、無縁坂、車坂、屏風坂、小坂、逢坂(牛込大坂)、浄瑠璃坂左内坂梅林坂(城内)、法眼坂南部坂(赤坂)、紀伊国坂(旧名赤坂)、紀の国(竹橋)、道玄坂(渋谷)、もちの木坂江戸見坂塩見坂(城内)、神楽坂清水坂(谷中)。以上計三十一を数える。
車坂とういう坂は、江戸と上方、その他の地方では、その意味が違うようである。江戸の坂については、『江戸鹿子』(えどかのこ・1687年)に、「車坂、東叡山より下谷へ下る坂なり、車を通ずる坂なればかくいふにや」とある。江戸では大概、車を通すことができる坂道、車が登れる坂道、車が通ってもよい坂みちを、車坂といっているようである。  (「横関英一著「江戸の坂 東京の坂(全)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」[嘉永四年・1851年](絵図右・東叡山寛永寺塔頭見明院左に車坂、その下に車坂門、慈眼堂左に屏風坂、その左下に屏風坂門、慈眼堂右下にシナノ坂、坂下門が描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」[嘉永六年・1853年](絵図左上・上野御山内右にシナノ坂と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸外絵図. 浅草,下谷,上野,谷中,湯島,本郷,小石川,駒込,染井迄」(遠近道印 [作]寛文11 [1671])(コマ番号4/5・絵図四つ切左上、不忍の池右方向、普門院右に車坂、慈眼大師右下に屏風坂が描かれていますが、コマ番号2/5を見ても信濃坂は描かれていません。)
国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸外絵図. 東ハ浅草、北ハ染井、西ハ小石川」(上図の一枚図)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸全圖」(須原茂兵衞[宝永4 (1707)])(コマ番号4/5・絵図四つ切右上、東叡山寛永寺左下に車坂が描かれ、その右に坂名無の屏風坂、そのさらに右に坂名無の、信濃坂と思われる坂が描かれています。)

下絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東叡山内外分間絵図帳面書付類共. [2]」(コマ番号4/5の写し図で、見明院左下に車坂の道と、階段坂が描かれています。階段坂の右下方向に車坂門が描かれています。慈眼堂下に屏風坂が描かれ、坂下で左下方向に進み、さらに右下方向に屏風坂門が描かれています。慈眼堂右上に信濃坂が描かれています。)

下絵図は「日文研所蔵地図 – (内題)東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治17(1884)」の写し図で、文字「桜木町」の「町」左下に車坂が、慈眼堂前に屏風坂、右上に信濃坂が描かれています。

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「東叡山寛永寺桜の峯山王社」(14-27)、「其二清水観音堂秋色桜」(14-28)、「其三」(14-29・絵図右ページ上に車坂と記述されています)、「其四」(14-30・絵図右ページ上に屏風坂と記述されています)、「其五」(14-31)

マーカーは屏風坂付近です。

車坂があったと思われる付近のカメラです。カメラ南南西方向に下っていたようです。

屏風坂があったと思われる付近のカメラです。

カメラ位置は現龍院墓地、慰霊碑 哀しみの東京大空襲前で、この位置に現龍院があったことになります。カメラ北北東方向先に坂下門があり、そこに慈眼堂方向から信濃坂が下っていたと思われます。