[大田文化の森前から北西に曲って荏原町(えばらまち)へ抜けるバス通りの坂道です。昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂(くらやみざか)が主な道でした。このバス通りを昔は田無(たなし)街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無へ通じる街道でした。明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無線と呼ばれています。臼田坂の坂名については、坂のあたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起ったといわれています。また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。 (「大田区ホームページ:臼田坂」より)]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図の小宿の上の二又の左下方向の坂は臼田坂で、右上方向の道は崖縁から右近坂になります。
マーカーは、臼田坂の坂上です。
臼田坂上・カメラ南方向が臼田坂で、カメラ方向左に標識柱があります。
臼田坂下・カメラ北北東方向が臼田坂で、カメラ方向左に標識柱があります。