[八景坂下の山王二丁目12番と三丁目31番の間を北西に上がる坂道です。昔、坂のそばに八景園があり、反対側に加納子爵(かのうししゃく)邸があって、坂に八景園の樹木がうっそうと覆いかかり、昼間でも暗かったためこの名がついたといわれています。八景園とは、明治17年に開園した遊園地でした。ちょうど現在の天祖神社の裏手一帯にあたり、その広さ約一万坪、数百株の梅が植えられ、東京湾の風光一望のもとに入る眺望であったといわれています。明治33年に大和田建樹(おおわだたけき)のつくった鉄道唱歌は「梅に名をえし大森を、過ぐれば早も川崎の」と、梅の名所として八景園を歌いこんでいます。なお、暗闇坂という坂の名前はポピュラーで、東京では主なものが12坂あげられています。 (「大田区ホームページ:闇坂(くらやみざか)」より)]
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「品川筋 御場 六郷領 不入計村」に字八景坂が描かれています。その前の東海道左側に闇坂があることになります。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図・「入新井村」上に八景園が描かれ、その下の道が闇坂と思われます。
マーカーは闇坂の坂上です。
闇坂上・カメラ東南東方向が闇坂で、坂右に闇坂の標識柱があります。
闇坂下・カメラ北西方向が闇坂で、カメラ方向左ガードパイプ端に闇坂の標柱があります。