実盛坂

[【標識の説明】
「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)、源氏木曽義仲加賀国の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。  (「文京区の坂(2)湯島方面(その2)」より)]

実盛坂(湯島): ぼのぼのぶろぐ

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図四つ切左下・湯島天神神田明神社の間にガイサカが描かれています、ガイサカに接続する道が本郷三組町の坂になると思います。この時点では三組坂はまだありません。ガイサカの右上方向に後年、実盛坂が造られることになります。)

(内題)東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治16(1883)」(地図右上・霊雲寺の下の道右側が三組坂ですが、この時点では本郷三組町の坂の状態で、道路としては描かれていませんし、実盛坂もまだありません。本郷三組町の坂下の谷がゴミ捨て場になっていました。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) 」 – 「首都圏」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。三組坂が現在の様に坂下まで開通するのは1927~1939年の地図以降に描かれ、この時点で実盛坂も描かれています。

マーカーは実盛坂の坂上です。

実盛坂 – Google Map 画像リンク

実盛坂上・カメラ東南東方向が実盛坂で、坂右に標識板があります。

実盛坂下・カメラ西北西方向が実盛坂です。

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