石坂

[「町内(駒込西片町)より南の本郷田町に下る坂あり、石坂と呼ぶ」──『新撰東京名所図会』に、こう記されているが、坂名の由来は不明である。ただ、この坂上の台地一帯は武屋地で、旧中山道までは備後国福山藩主十一万石の中屋敷と、江戸幕府御徒組、御先手組の屋敷地であった。いずれも軽輩ではあったが、幕府の軍事組織として組み入れられ、いざ鎌倉というときには率先して戦にくわわらなければならなかった。江戸時代は俗に東片町向側と呼ばれていたが、明治5年になって駒形西片町ができ、東京大学に近い関係で学者が多く住み、学者町ともいわれた。  (「文京区の坂 | 石坂」より)]

[西片1丁目3・8番と14番の間の大きく左に曲がった坂道。西片が、福山藩主阿部家の武家屋敷だった時代より、中山道の出入り口から邸内を南北に縦断する主要道路(西御殿前通り)が通っていた。この坂道は当初その南端部に開かれていた切通しの急坂で、当時は石の階段が設置されていたので石坂と呼ばれ、坂上に物見楼、坂下に阿部家の表御門があった。明治5年には近隣の人々も通行できるようになったが、明治31年坂道のルートをより東方向へ曲げ、現在のようなS字状の広い坂道に改造した(新・石坂)。その時、地面を削り取ったので、石段は撤去され、現在のなだらかな坂道となった。新しい石坂を開く時に狐穴が2つ出てきたので、油揚げで誘い出して阿部邸の外庭の方へ移って貰ったという話が伝わっている。現在の西片サニーハイツマンションを建てる時に、阿部正道が゜元々の石坂の下り口を調査したところ、新発田育英舎裏まで続く石畳の坂の一部分が残っていたそうだ。
樋口一葉は菊坂に住んでいたころ、急坂だった旧石坂を上って、現在の西片1丁目11番にあった師である半井桃水の寄宿先を訪ねている(桃水は、明治25年3月より従姉の夫である旧福山藩士の河村家に寄宿していた)。  (「文京区 西片について – 電話住宅相談所」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図中央上・阿部伊勢守下屋敷左上、興善寺、大善寺下の道が石坂になります。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右下・本郷田町左上に描かれる坂道が石坂です。)

[西片町略図

略図左下・田町の上の道が石坂になります。  (「西片の歴史 – 西片町会」より)]

マーカーは石坂の坂上です。

石坂 – Google Map 画像リンク

石坂上・カメラ南東方向が石坂です。

石坂下・カメラ西方向が石坂です。

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