[この胸突坂を含め、区内には胸突坂と呼ばれる坂道が3ヶ所あります。その一つ、西片2丁目と白山1丁目の間にある胸突坂については、「坂路急峻なり、因て此名を得」(『新撰東京名所図会』)とあり、もう一つ関口2丁目と目白台1丁目の間にある胸突坂については、「あまりに坂之けはしくて胸をつくばかりなれば名付といふ」(『御府内備考』)とあります。本郷5丁目にある、こちらの胸突坂も、他の2つの胸突坂同様に急な傾斜の坂道です。坂名もやはり、その急な傾斜に由来するものでしょう。 (「文京区ふるさと歴史観 – 胸突坂」より)]
[旧 菊坂町 (きくさかちょう)
(昭和40年までの町名)
この辺一帯に菊畑があった。坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。
元禄(げんろく)9年(1696)町屋 が開かれ、その後町奉行支配(まちぶぎょうしはい)となった。
町内には、振袖火事(ふりそでかじ)の火元の本妙寺(ほんみょうじ)があった。下通りには、女流作家樋口一葉(ひぐちいちよう)が住んだ。現在旧居跡(樋口一葉菊坂旧居跡)には掘抜(ほりぬき)井戸が残っている。
文京区 (「旧 菊坂町 (きくさかちょう) – Monumento(モニュメント)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図中央上方向・菊坂臺町上方向にム子ツキサカと記述されています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右下・地図右端の本郷臺町左下に菊坂と記述されています。この頃菊坂名の位置について多少混乱があったと思われます。)
マーカーは胸突坂の坂上です。
胸突坂上・カメラ西方向が胸突坂です。
胸突坂下・カメラ東北東方向が胸突坂です。