[明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には、修徳園とよばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。
設置者: 新宿区教育委員会
設置日: 平成九年三月 (「出羽坂(新宿区南元町) – 東京23区の坂道」より)]
[明治維新後、幕末の永井信濃守下屋敷(大和新庄藩・櫛羅藩)の屋敷跡は、三井家の屋敷となり、それを買収して引っ越して来たのは、牛込神楽坂の松平氏(松平直亮)で、これが徳川時代の松平出羽守であったのである。 (「横関英一著「江戸の坂 東京の坂(全)より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(絵図中央右下方向に永井信濃守下屋敷が描かれています。永井信濃守下屋敷から上方向の道が明治になり鉄道線路工事により香蓮寺等の左側、永井金三郎地内に道路が新設されたと思われます)
「(内題)東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治17(1884)」(絵図四つ切右上・四谷区下、茶畑の道路角から元鮫川橋町に向け道路が造成され、その道に出羽坂ができたと思われます。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図の元鮫川橋町下に線路と道路が描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 四谷區全圖」(地図四つ切右下・南元町右上に出羽坂と記述されています。)
マーカーは出羽坂の坂上です。
出羽坂上・カメラ東北東方向が出羽坂で、坂右に標柱です。
出羽坂下・カメラ西南西方向が出羽坂で、坂右に出羽坂の標柱があります。