柿ノ木坂

[目黒通りは、東隣の品川区から目黒区に入って権之助坂を目黒川向けてに下り、目黒新橋を渡ってから再び油面方向に向けて金毘羅坂を上る。このあと柿ノ木坂陸橋交差点で環七通りを過ぎ、再び呑川の谷に向けて下る。この坂が柿の木坂である。坂を下りきったところで東急東横線のガードをくぐる。この地点は都立大学駅に近い。
地名としての柿の木坂は、坂の北西一帯の地域である。全体は、北西 – 南東方向にやや細長い三角形をしており、北西から南東に呑川柿の木坂支流が縦貫している。南東辺を目黒通り、北東辺を環七通り、西辺を柿の木坂通り(区道)が通っており、柿の木坂二丁目と柿の木坂三丁目の間を東西に駒沢通りが通っている。  (wikipedia・柿の木坂より)]

[「柿の木坂」は、環七通りと目黒通り、そして柿の木坂通りの三本の道で区切られた閑静な住宅地。そのほぼ中央を呑川の浅い谷が縦断しているところから、その名のとおり全域がゆるやかな傾斜地だが、この地名「柿の木坂」は、元来は、環七通りの交差点から都立大学駅辺りまで下る目黒通りの坂の名。現在は真っすぐでなだらかだが、かつての「柿の木坂」は、西側へ大きく湾曲した急坂で、神田京橋の市場へ野菜を出荷するため、この坂を通らなければならない目黒や世田谷の農民たちにとって、道中屈指の難所であった。
さて、この坂の名の由来については、次のように諸説がある。
(1)この坂のそばに、大きな柿の木があった。
(2)この辺りには柿の木のある農家がたくさんあり、農民たちは野菜と一緒に柿を大八車に積んで、この急坂を上った。ここで活躍したのが付近の悪童たちで、車を押すのを手伝うふりをしながら、あるいは農民たちが一台を押し上げては次の車を上げるために坂を下りるその間に出没して、車から柿を抜き取っては逃げた。すなわち、「柿の木坂」は「柿抜き坂」が転じたもの。
(3)枝もたわわになった柿の木がよく見える坂だった。
(4)坂の両側には人家が少なく、夕暮れになると人の行き来のない寂しい坂だったので、人びとはこの坂を駆け抜けて通った。すなわち、元は「駆け抜け坂」。
なお、現在の東が丘と八雲の一部とともに「東根」の名で呼ばれてきたこの地に「柿の木坂」(当時は「柿ノ木坂」)の町名が採用されたのは、目黒区が誕生した昭和7年のことである。  (「柿の木坂 (かきのきざか) 目黒区」より)]

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「衾」右上方向に柿木坂が描かれています。)

東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」[地図左グリーンのエリア・東京横濱電鐡線の柿木坂駅が描かれ、改修前の二子道(目黒道)が描かれています。]

マーカーは柿ノ木坂の坂上です。

柿ノ木坂上・カメラ西南西方向が柿ノ木坂です。

柿ノ木坂下・カメラ北東方向が柿ノ木坂です。

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