金毘羅坂

[目黒通り大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂(こんぴらざか)という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社(目黒3丁目)があったところから、この名がついたという。明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。
坂の途中に昭和2年から住んでいる安本鹿平さんは「昔は、今よりずっと狭い道で、小型乗用車を少し大きめにした程度の乗り合いバスが走ってました。そうそう、坂の南方には、当時、競馬場がありましてね。馬券が当たって、大盤振る舞いをしている人が、あなた知っているかな、2人引きの人力車、そいつに乗って帰るって話をよく耳にしたものですよ」
当時、道幅は約8メートル。現在は、約25メートルなので3倍もの広さになったのである。
安本さんの隣人で、大正12年から住んでいる白石兼吉さんは「目黒競馬場へは、よく行ったよ。馬券は20円で1人1枚きりしか買えなかった。そりゃものすごい人出でな、毎週土曜日、日曜日は、大変なものだったよ。乗り合いバスや馬車をつかって競馬場へ向かう人で、坂はいっぱいだったよ。当時、交通事故も3度ばかりあったかな。まだ自動車なんてものは、ほんとに少なかったから、交通事故なんてものも珍しいことでしたよ。今とちがって死ぬってことはなかったな」
現在の金毘羅坂、人の波から自動車の波へと移り変わり、区内でも上位の交通量を示している。  (「目黒の坂 金毘羅坂(こんぴらざか) 目黒区」より)]

[金毘羅坂こんぴらさか
坂の西側に金毘羅権現社(高幢寺)があったので、坂の名がついたといわれる。
金毘羅権現社は、江戸名所図絵の押絵にその壮観がしのばれるが、明治の初めに廃寺となった。
坂の東側には、明治四十年に目黒競馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂は競馬場にゆきかよう人々でにぎわった。
  昭和五十八年三月   東京都  (「江戸下目黒・高幢寺 – 東川寺」より)]

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向、下目黒上、相州街道上に高幢寺、鎮護社が描かれています。その相州街道右方向が金毘羅坂になります。)

マーカーは金毘羅坂の坂上です。

金毘羅坂上・カメラ東方向が金毘羅坂です。

金毘羅坂下・カメラ西南西方向が金毘羅坂で、坂左目黒通り標柱左に東京都設置の金毘羅坂の説明碑があります。

東京都設置の金毘羅坂の説明碑

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