[〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図(嘉永七年・1854年)を見ると、絵図左下、石神井川に架かる板橋の左に岩ノサカと記述され、その下に近藤石見守抱屋敷と記述され、その右道に「コレヨリ二丁ホト行バアイセン社(日曜寺)有」と記述されています。また、「御府内場末往還其外沿革圖書. [30]貮拾貞(嘉永七年・1854年)」のコマ番号8/13を見入ると、四つ切左上に石神井川の左、下板橋宿左、日曜寺、智清寺参道左に近藤石見守(近藤登之助)抱屋敷が描かれ、その上の旧中山道に坂印が描かれ岩ノ坂と記述されています。日曜寺、智清寺参道は現在の愛染通りになり、近藤石見守抱屋敷は「沿革圖書」で想定すると、愛染通りから現在の環七通りまであったと思われます。坂の印は現在の縁切り榎が過ぎるあたりまで描かれています。]
近藤貞用
[近藤 貞用(こんどう さだもち、慶長11年(1606年) – 元禄9年2月2日(1696年3月5日))は、江戸時代初期の武士。江戸幕府旗本、鉄砲頭。近藤季用の子。通称は登助。
駿府城にあった徳川家康に御目見えし、席上で家康の11男徳川頼宣に仕えるようにいわれ、これに仕えた。また、その頃は江戸に在住していた。慶長17年(1612年)、父の季用が死去すると家督を継ぐ。頼宣隊に属し大坂冬の陣に参加。元和5年(1619年)8月、頼宣が紀州藩に移封となったので、紀伊国に赴き領地は代官に支配させた。
元和6年(1620年)、祖父の近藤秀用より呼び戻され3140石を分知され、寛永8年(1631年)に秀用が死去すると一族に分知され、貞用は5450石を分知される。延宝5年(1675年)井伊谷と花平の山境、また金指と井伊谷の境界争いがあり、自らその箇所に出かけて内偵をし、陣屋に関係者を呼んで裁定した。このように領民の意を自ら聞いたり、道路の整備、市場の開設など善政を施した。また、江戸においては、明暦3年(1657年)の明暦の大火では働きに秀でて江戸幕府より賞賛され、水野成之ら旗本奴と幡随院長兵衛ら町奴達の暴挙の際にはこれを征している。
長男(嫡男)の昌用は、寛文3年(1663年)23歳で早世し、孫の徳用(昌用の長男)に後を継がせた。延宝7年(1679年)8月、百間四方の陣屋が10年10ヶ月かけて完成し、同年9月2日に徳用とともに新しい陣屋に入った。
元禄9年(1696年)、金指陣屋で91歳で死去する。宝林寺(現・浜松市北区細江)に葬られた。法名は棲雲院語石性訥居士。宗家・金指近藤家は、徳用のあと、昔用、寧用、英用、壽用、有用と続く。 (wikipedia・近藤貞用より)]
[歌舞伎の幡随院長兵衛の芝居に出てくる近藤登之助としても知られる、旗本退屈男のモデルでもある。 (「近藤縫殿助用随・旗本近藤家」より)]
マーカーは、岩の坂の坂上です。
カメラ位置は縁切り榎交差点で、カメラ南方向が岩の坂になります。
カメラ位置は愛染通り交差点で、カメラ北北西方向が岩の坂になります。