[急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん・百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説も。 平成6年3月 港区
【「港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)」の標識の説明】
報土寺は、慶長19年(1614)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、江戸幕府の用地取り上げにより安永9年(1780)に三分坂下の現在地に移転し てきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦に横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。
報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸時代の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
平成10年9月1日 東京都港区文化財総合目録登録 東京都港区教育委員会
【「雷電為右衛門の墓」の標識の説明】
明和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれ る。天明4年(1784)年寄浦風 林右エ門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814) 当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。
昭和50年12月 東京都港区教育委員会設置 (「三分坂(港区赤坂)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図中央左方向・報土寺右に三分坂が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上・赤坂一ツ木町下に報土寺が描かれています。その右に坂道が描かれ三分坂と記述されています。)
マーカーは三分坂の坂上です。
三分坂上・カメラ南東方向が三分坂で、坂右に標識があります。
三分坂下・カメラ北東方向が三分坂で、坂左報土寺築地塀(練塀)際に標識があります。