南部坂

南部坂
[赤坂の南部坂は赤坂福吉町と麻布今井町との境、現在の住所で赤坂二丁目と六本木二丁目の境界をアメリカ大使館宿舎わきを西北に上り、左折してさらに氷川神社のほうに上る坂である。坂の名称は、江戸時代初期、近隣の氷川神社の辺りに南部家中屋敷があったことに因む。この坂は急峻であることから、後には「難歩坂(なんぶざか)」と書き表されることもあった。また、「なんぽ坂」、「赤坂」とも呼ばれた。この坂の由来となった南部家中屋敷は明暦2年(1656年)、赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えが行われた。この際に南部家は現在の南麻布有栖川宮記念公園のある場所へと移動、移動先でも「南部坂」が生まれたために同名の坂が2ヶ所存在することとなった。南部坂が「難歩坂」「なんぽ坂」などと書き換え、言い換えられるようになったのは、「南部屋敷」がこの坂の周囲から移転してしまったことによる。
この坂は、忠臣蔵の名場面のひとつ、大石内蔵助瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られる。
南部坂(赤坂)の頂上付近・wikipedia-photo、道標(坂下に存在)・wikipedia-photo、坂下付近(六本木側)・wikipedia-photo、途中から頂上を望む・wikipedia-photo、坂上の交差点付近(赤坂側)・wikipedia-photo、港区設置の標柱・wikipedia-photo  (wikipedia・南部坂より)]

「南部坂雪の別れ」の真相
[討ち入り直前に赤穂藩家老の大石良雄が赤坂・南部坂の瑤泉院のもとに赴くという「南部坂雪の別れ」は、『忠臣蔵』など元禄赤穂事件を題材にした創作作品によく描かれるシーンだが、事実ではない。【※赤坂南部坂(現東京都港区赤坂6丁目)にあった下屋敷(赤穂藩浅野家)のほうも3月18日(4月25日)には藤井宗茂富森正因から人吉藩相良長在へ引き渡された。wikipedia・元禄赤穂事件 – 赤穂藩 浅野家の改易より】
浅野家改易後に大石が瑤泉院に拝謁したのは、討ち入りからだいぶ前の元禄14年11月14日(1701年12月13日)の一度のみだった。これは、大石が瑤泉院の結婚時の持参金を、浅野家の家名再興や討入りの運動資金として使用し、討入り直前にその収支決算書を瑤泉院の用人・落合勝信に提出したことが元になっているようである。
そもそも瑤泉院は当時、南部坂には住んでおらず、同じ赤坂の今井町(上屋敷・後の赤坂新坂町、現在の赤坂8丁目)にあるお里方の三次藩浅野家の下屋敷(現在の氷川神社)に引き取られていた。  (wikipedia・瑤泉院より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図中央付近・真田信濃守中屋敷上に、南部坂が描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右上・工部省用地右上の道に南部坂と記述されています。)

/江戸坂見聞録/南部坂(赤坂)

マーカーは南部坂の坂上です。

南部坂 – Google Map 画像リンク

南部坂上・カメラ東南東方向に南部坂の標識があります。

南部坂下・カメラ北北西方向坂右に南部坂の石碑があります。

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