[牛坂と堀田坂の間の坂で、坂名の詳細は分かりませんが江戸時代からある坂のようです、絵図を見ると坂周辺は小役人住居地で、坂下の笄川から上り、坂上を北に進むと長谷寺その先が青山百人町になります。
青山百人町について、「【赤坂②】青山百人町 | 江戸町巡り」で、『青山通りの両側。1678(延宝6)年、「青山」の地名の由来になったといわれる青山忠成が、現・北青山三丁目1~4番に鉄砲百人組の与力25騎・同心100人を住まわせていたことでこの里俗地名が生じた。後に与力が20騎となり、「二十騎町」とも言われた。1678(延宝6)年以後、上地して与力・同心に改めて支給された。現・南青山四丁目17番は後に「足(た)シ地」として加えられ、「足シ山」と呼ばれ、さらに「立山」と訛った。』と記述されています。
現・南青山四丁目17番の南側は、「会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地が興りとされ、隣接してのちの青山霊園への造成へとつながっていった。(wikipedia・青山霊園より)」地になります。この立山が御太刀につながったのではないかと想像しています。
しかし、「御太刀坂 – 麻布細見(azabusaiken.ttcbn.net)」では『坂の由来は、この辺りの旗本の家に名誉の太刀があり、常に唐櫃に納めて玄関に置き、火災などの急変の際に持ち出せるよう備えていたことから、御太刀坂と呼ばれるようになったという。』としていますので、こちらが説得力がある。
「みみかき on Twitter: “西麻布の御太刀坂。 坂道の脇を覗くと擁 …」で現在の坂の構造について、『西麻布の御太刀坂。坂道の脇を覗くと擁壁がレンガだった。笄川の高樹町支流が削った崖。現在は集合住宅が建っているけど、全体を見渡せたらアーチの連続が美しかったんだろうな。』と紹介しています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(嘉永元年・1848年)」(コマ番号3/7・絵図中央右、山口周防守下屋敷左上に御太刀坂が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [11]拾七下(嘉永元年・1848年)」(コマ番号154/196・左ページ、山口周防守下屋敷右下に御太刀坂が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央下・山口筑前守下屋敷の上、小役人屋敷地の間が御太刀坂になります。)
マーカーは、御太刀坂の坂上です。
御太刀坂上・カメラ東南東方向が御太刀坂で、坂右の擁壁がレンガ擁壁になっています。
御太刀坂下・カメラ西方向が御太刀坂です。