[坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下がったので、顔の真ん中の低いお多福面のようだと名づけられた。 (「港区公式ホームページ/於多福坂 」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [7]拾七上」[コマ番号141/214・正徳三(1713)年之形で鳥居伊賀守(鳥居忠英)と記述されています。コマ番号142/214・享保八(1723)年之形で鳥居伊賀守屋敷地が分割され於多福坂の道が出現しています。忠英は名君で、壬生の藩政においては殖産興業政策(特に干瓢栽培)を奨励し、藩校である学習館を創設するなどして藩政の基礎を固めている。正徳6年(1716年)3月21日に死去した。享年52。実子は全て早世したため、弟の忠瞭を養子として跡を継がせたとされますので、忠英、忠瞭のどちらかの時代に屋敷替えがあったと思われます。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/5・絵図中央、松平丹波守中屋敷上の道が於多福坂になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央左方向・鳥居坂と長サカ(永坂)の間にシオミサカが描かれています。そこは於多福坂になり、汐見坂は右端で合流する、合流点から下側になります。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央上・東鳥居坂町右の道が於多福坂になります。)
マーカーは於多福坂の坂上です。
於多福坂上・カメラ南方向が於多福坂で、坂右に標柱があります。また、道路左側がフィリピン大使館です。
於多福坂下・カメラ北北東方向が於多福坂で、坂右に標柱があります。