[港区赤坂2丁目15番と17番の間を、北から南へ向けて上る坂道です。飲食店の入ったビルの間にある石段の坂道です。
坂道の標識は設置されていませんが、赤坂福吉町会と福吉坂改修工事実行委員会が設置した「福吉坂石段の改修工事について」という金属製のプレートが坂上部に設置されており、この石段が「福吉坂」であることを示しています(写真リンク)。
坂道の由来は、このあたりが旧町名で赤坂福吉町と呼ばれていたことに由来すると考えられます。赤坂福吉町の由来については、近くの氷川公園にある「赤坂旧町名由来板」に次のように記されています。
江戸時代初期には、本町の地域には福岡藩黒田家、人吉藩相良家、菰野藩土方家の屋敷がありました。元禄年間(1688~1704年)には土方家屋敷が結城藩水野家の屋敷になりましたが、その後、変化はありませんでした。明治5年(1872年)、福岡藩・人吉藩・結城藩の三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」となりました。福と吉という縁起の良い町名ということで、当時、人々の間で評判であったといわれています。 (「福吉坂(港区赤坂) 」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央上方向に相良志摩守(人吉藩)中屋敷の場所が福吉坂があることになる場所と思われます。)
「国際日本文化研究センター – 内題)東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右上・相良志摩守(人吉藩)中屋敷の場所が一條邸になっています。福吉坂とは違いますが、一條邸裏口と思われる場所に階段坂が描かれ敷地が高台にあることがうかがわれます。)
マーカーは福吉坂の坂上です。
福吉坂上・カメラ北北西方向階段が福吉坂です。
福吉坂下・カメラ南南東方向階段が福吉坂です。