[文政五年、金丸彦五郎図工、須原屋茂兵衛蔵版「『分間江戸大絵図』」の、麻布白金御殿跡の辺りに、「アカウサカ」という坂の名が見える。これは、奴坂という坂につづいて西の方へ上る坂である。遍正寺と称念寺のあいだの道すじである。今日でいえば、南麻布三丁目五番六番の境を西に上る坂ということになる。この坂みちの北側には「亀井大隅守(津和野藩)」の下屋敷があり、南側には小屋敷が一廓になって、たくさん並んでいる。この辺は、昔の白金御殿の一部であって、かっての保科肥後守(保科正之)の下屋敷があったところである。
元禄六年の江戸大絵図には、この坂の南側に、「ホシナヒコ」とあり、この坂を挟んでその北側には、「カメイノト(亀井能登守)」の下屋敷がある。保科肥後の西隣の屋敷は、「本多越前(本多利長)」である。この保科肥後と亀井能登の間の坂が、「アカウサカ」なのである。「アカウサカ」とは阿衡坂と書いたものと思われる。阿衡(あこう)とは、天子の輔佐たる摂政または宰相の異称である。ここではもちろん、徳川将軍の輔佐役という意味であろう。そして、ここの保科肥後守が、その阿衡なのである。 (「横関英一著「江戸の坂 東京の坂(全)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図」(絵図3/5中央付近に「アカウサカ」が描かれています。下画は元図を反転し拡大コピーしています。「土屋相模中屋敷」左方向、「龜井能登中屋敷」の右上に「アカウサカ」と記述されています。)
「江戸図 – 早稲田大学」 – 「請求記号:ル11_01193 23カット」(18、19カット・本多越前の下に「ホシナヒコ」とあります。)
マーカーは、阿衡坂 の坂上です。
阿衡坂上・カメラ東方向が阿衡坂です。
阿衡坂下・カメラ西北西方向が阿衡坂で、カメラ東方向は奴坂になります。