[鳥居坂(とりいざか、鳥井坂)は、東京都・麻布にある坂である。鳥居坂は、港区麻布六本木5丁目、フィリピン大使館や東洋英和女学院前を南に下る坂である。坂沿いの西側には東洋英和女学院小学部がある。明治時代末期から大正時代頃までの鳥居坂周辺は優雅な地域で、華族・三条家の邸宅をはじめ、韓国皇太子が育てられている館、実吉家や大鳥圭介の邸宅などが連なっていたという。鳥居坂には明治時代、造園家・市川之雄設計による鳥居坂御料地が置かれた。また、1883年(明治16年)には日本基督教団の鳥居坂教会が作られ、翌1884年(明治17年)になると東洋英和が開校している。
坂名の由来
江戸時代の地誌 『江戸砂子』は坂名について、「慶長のころ、この地は鳥居彦右衛門に賜ひしところなり。よりてかく鳥居坂の名あり」と記している。また、同じく江戸時代に作成された寛文図によれば、この坂が出来る前、この一帯は「トリイ兵部」という者の屋敷で、『府内沿革図書』の延宝年間より享保8年に至るまでの図面にも、この坂上に鳥居氏の屋敷が記載されている。一方、『新撰東京名所図会』は、「むかし坂の上に鳥居左京亮の屋敷ありしに因り此の名あり」と鳥井氏の屋敷があったことに因むという一般的な説を紹介すると同時に、「一説に麻布氷川神社むかし大社にて二の鳥居此所にありしを以って称し来りと」と、かつて坂上に神社の鳥居があったことに因んでいるという異説にも言及している。
鳥居坂交差点・wikipedia-photo、鳥居坂・wikipedia-photo (wikipedia・鳥居坂より)]
[六本木5丁目11番、5丁目12番の間
江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。 (「港区公式ホームページ/鳥居坂」より)]
[『江戸幕府大名武鑑編年集成 6 宝永七年―正徳五年』(深井雅海[ほか]編 東洋書林 1999)によると、「鳥居伊賀守忠英」の上屋敷は「神田橋之内」、下屋敷は「麻布永坂」とあった。 (「江戸時代の若年寄である鳥居忠英(トリイタダテル)(任 …」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 増補江戸大絵図絵入(延宝9・1681年)」[コマ番号3/5・絵図中央下、古川北端右上に鳥居兵部(鳥居忠則)と記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 増補江戸大絵図 絵入(天和2(1682)刊)」(中央左方向・古川上端右上に鳥居兵部と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸全圖[宝永4 (1707)]」[コマ番号3/5・絵図中央、古川上端右上にトリイハリマ(鳥居播磨守・鳥居忠英)と記述され、その上の道が鳥居坂になると思われます。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [7]拾七上」[コマ番号138/214・延宝年中(1673年-1681年)之形、138/214・元禄八(1695)年之形の右ページに鳥居丹波守(鳥居忠則)、コマ番号139/214・元禄十六(1703)年之形で鳥居播磨守(鳥居忠英)、コマ番号140/214・宝永六(1709)、七(1710)年之形、コマ番号141/214・正徳三(1713)年之形で鳥居伊賀守(鳥居忠英)と記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/5・絵図中央下、麻布南日ヶ窪町上に鳥居坂が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央左方向・京極壱岐守上屋敷右上に鳥居坂が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上・宮下町上に鳥居坂と記述されています。)
マーカーは鳥居坂の坂上です。
鳥居坂上・カメラ南南西方向が鳥居坂で、坂左に標柱があります。
鳥居坂下・カメラ北北東方向が鳥居坂で、坂左に標柱があります。また、道路東側にシンガポール大使館があります。